7月(文月) | 記念品トレンドニュース情報速報

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四万六千日とは……ほおずきとの関係も合わせて解説

七月十日が「四万六千日(しまんろくせんにち)」とよばれる菩薩様のための縁日であることを知る人も少なくなりました。しかし、ほおずき市の縁日、と聞けば「四万六千日のご利益」や「ああ、浅草寺」と思い当たるのではないでしょうか? 観世音菩薩様の4万6000日分のご利益がある最強の功徳日を日本人なら知っておきたいものです。この記事では、四万六千日の縁日のいわれとほおずき市の関係もあわせご紹介いたします。

四万六千日とは

ご利益が倍増する「功徳日」とは?

功徳とは、善い行いを心掛けることによって神仏から幸運を授かることを指しており、つまりはご利益のことを意味しています。そのご利益を授かることができる行いの中でも重要とされているのが寺社仏閣への参拝なのですが、参拝する日によって受けることができるご利益が大きく変わります。その日にお参りを行うと、何日分ものお参りをしたのと同じご利益が授かることができるといわれており、功徳日と呼ばれています。

四万六千日は最大のご利益が期待できる功徳日

日本人には最もなじみの深い仏様である観音様は、正式には観世音菩薩、または観自在菩薩と呼ばれ、人々を災難から救う慈悲深い仏様として信仰を集めてきました。平安時代の頃から、この観音様のご縁日として毎月「18日」と決められてきました。そして16世紀ごろの室町時代に、「功徳日」あるいは「欲日(功徳日)」、地方によっては「およく」と呼ば れる縁日が新たに追加されていきました。厄除正観世音菩薩の功徳日として決められている功徳日は下記のとおりです。

1月1日(百日)
2月28日(九十日)
3月4日(百日)
4月18日(百日)
5月18日(百日)
6月18日(四百日)
7月10日(四万六千日)
8月24日(四千日)
9月20日(三百日)
10月19日(四百日)
11月7日(六千日)
12月19日(四千日)

この功徳日のリストを見てもわかるように、観音様からのご利益が最も期待できる日が、四万六千日すなわち7月10日にあたります。この7月10日には、浅草寺ほか観音信仰をつかさどる寺社では、この日数の功徳日として多数の参拝客が訪れています。

四万六千日の由来とは?

参詣すると四万六千日参詣したのと同じ功徳があるという「四万六千日」。この四万六千日という日数は何に由来するものなのでしょうか? 実はこの「四万六千」という数の根拠は明らかではありません。一説には一升枡に入る米粒の数に相当する といわれ、「一升」を「一生」にかけて一生分の御利益がいただけるから、という説があります。

四万六千日とほおずきの関係

四万六千日とほおずきの関係とは?

四万六千日とは、この日に参詣すると四万六千日参詣したのと同じ功徳があるという縁日のことを指すことはご紹介した通りですが、この功徳日のもっとも有名でわかりやすい例が、東京浅草寺の7月10日(現在は9、10日)の縁日です。浅草寺の境内では、この日に合わせてほおずき市が行われていますが、その歴史は古く、江戸時代の明和年間(1764年~1772年)の頃に始まったといわれています。功徳日の浅草寺には沢山の参詣者があり、境内で売られていた雷除けのお守りのひとつに赤トウモロコシがありました。赤は古来より魔よけ、厄よけの効果がある色として珍重されており、災害の原因となった雷を回避するお守りとして珍重されたのです。そして、浅草寺から雷除守護の札が出されるようになりました。現在も四万六千日にもらえる竹串に挟んだ三角形の「雷除札」は浅草寺参拝客によく知られたお守りです。また、この頃から雷除けのお守りが赤トウモロコシに代わって、ほおずきが売られるようになりました。これが現在のほおずき市となったとされます。ほおずきが売られるようになったのは、ほおずきの利尿・鎮痛・解熱などの効能効果によって、薬草として珍重されたことにあります。

もともとのほおずき市は浅草寺ではなく愛宕(あたご)神社

「ほおずき市」といえば浅草寺と連想されることが多くなりましたが、「ほおずき市」は、もともとは東京の愛宕神社の縁日でした。愛宕神社で四万六千日の縁日にほおずきの市が立つようになり、鮮やかな赤い実のほおずきは、見た目のかわいらしさから重宝されていたのではなく、昔はれっきとした漢方薬の一つとして珍重されてきました。特に愛宕神社や戦争時の縁日で売られていたほおずきを水で鵜呑み(丸飲み)にすると、大人は癪(しゃく:なかなか治らない持病)を切り、子供は虫の気(当時、腹痛などはお腹の虫によるものと考えられていたため)を去る」と大変評判となっていたのです。この愛宕神社のほおずき市の影響を受け、浅草寺にもほおずき市が立つようになりました。そしてほどなくして浅草寺が愛宕神社に代わり、現在のようにほおずき市の寺として定着したのです。

ほおずきが持つ意味とは?

ほおずきには、漢字で書くと「酸漿」「鬼灯」の漢字があてられています。「酸漿」の字体は中国名での漢字そのままの書き方になり、「鬼灯」については、お盆にご先祖様が帰ってくる時に掲げておく提灯代わりとして飾られたことが由来となっています。

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文月の由来や語源について考えてみた

「文月って何月のことかいえる?」ととっさに聞かれると、古文好きの方はともかく、すぐには出てこないという方は多いのではないでしょうか。文月とは、7月をあらわす和風月名のことです。卯月、弥生から始まり12か月分の和風月明を暗記した記憶がよみがえります。この夏のひと月をあらわす文月には、実は様々な興味深い由来やエピソードが隠されています。

7月の別名「文月」はいつ? 名前の由来は?

旧暦の7月「文月」は現在の8月中旬から9月中旬にあたる

文月は、「ふみづき」もしくは「ふづき」と呼び、7月の旧暦で使用していた和風月名からくる呼び名です。一説には、稲の穂が実る月=穂含月(ほふみづき)という連想から生まれた呼び名だといわれています。「ふみづき」は夏真っ盛りの7月を指す呼び名なのに、稲穂が実る、という意味を含んでいることに、奇妙な違和感を覚えます。しかし、和風月名は、現在の暦より約一か月遅れの旧暦の季節や行事に合わせたものです。そのため現在の季節感とはひと月ほどずれがあります。

「文月」の名前の由来とは?

現在でいえば8月中旬に当たる「ふみづき」は、まだまだ暑いけれど、秋の気配を感じる季節でもありました。この季節の月になぜ「ふみづき」という名がつけられたのでしょうか。「ふみづき」の由来、語源は先ですでに触れた「穂含月」または「文披月(ふみひろげつき)」になると考えられています。

文月の別名「文披月(ふみひろげつき)」の意味は?

藤原定家とともに「新古今和歌集」の撰者(せんじゃ)、藤原有家の歌集「蔵玉(ぞうぎょく)和歌集」にある歌「七夕の逢ふ夜の空のかげみえて書きならべたる文ひろげ月」に「文披月」が登場します。この歌のなかの「書」とは、詩歌などを書いた手習いの書のことでしょうか? それとも書物のことなのでしょうか? このころの「文披月」の文の意味には、中国から伝わった七月(文月)には経典と衣服の虫干しをする習慣があらわす通り、経典他書物を表していたと予想できます。旧暦の8月にはからりと晴れた夏空が広がり、大切な書物につく虫を追い払い、湿気から守るために最適な季節だったのでしょう。なお、藤原定家の末裔にあたる京都の冷泉家(れいぜいけ)では、今なお平安の面影が残る文月の行事である「乞巧奠(きっこうでん)」が催されています。先にご紹介した中国で行われていた女性たちの染織技術や手芸技術の向上を祈る七夕行事です。冷泉家では、まず祭壇「星の座」を設けて糸や針を並べます。そしてその前には様々な海の幸や山の幸をお供え物とし並べ、季節の果物野菜、豆類などの農作物も皿に盛られて並べます。お供え物の品目は、「うり(瓜)なすび(茄子)もも(桃)なし(梨)からのさかづき(空の盃)に ささげ(大角豆)らんかず(蘭花豆)むしあわび(蒸蚫)たい(鯛)」と、冷泉家らしく一首の和歌になっているところが心憎い演出です。またすべて二組用意されているのは、それぞれ彦星と織姫への供え物だから、というのも、雅な平安貴族文化ここにあり、という一瞬にして平安の昔にタイムスリップしたような気分にさせられます。

文月の別名「穂含月(ほふみづき)」の意味は?

稲の穂が実る月という意味の「穂含月」も文月の異称とされる呼び名です。この呼び名の由来は、「穂見祭(ほみさい)」という行事とかかわりが深いものと考えられています。穂見祭とは、旧暦の7月、現在の8月の時期に行う先祖祭りのことを指しています。稲穂が見える月ということから穂見祭と呼ばれるようになりました。また豊作祈願及び豊凶占いの神事式を指すこともあります。

「文月」に行われる行事などから見られる季節感

「文月」に見られる行事やイベント

・七夕

「ふみづき」、すなわち7月に行われる日本情緒あふれる風習といえば「七夕」です。織姫と彦星の悲恋物語でよく知られる七夕は、その字が示す通り「七月七日の夕刻、夕べ」を表しています。彦星(牽牛:けんぎゅう)と織姫星(織女:しょくじょ)のふたつの星が、年に一度天の川を渡って巡り会うという何ともロマンチックな伝説です。織姫はその名が示す通り、機を織る女性を象徴する星です。七夕伝説の大元である中国では、女性たちは七夕の夜に織姫星に機織りが上達するように祈願しました。祭壇を設けて糸や針、布などを供え、機織り祈願の風習はそのまま日本に伝わり、平安時代には女性の手工芸の上達を祈願し、織姫と彦星の再会を祝い、貴族たちは管絃や詩歌の宴を催し楽しんだといわれています。ただし、もともと七夕は8月始めだったのですが、新暦になった現在ではまだ梅雨が明けない7月上旬に執り行われるようになりました。そのため、毎年なかなかスッキリと晴れた空に天の川を見ることができなくなってしまいました。

・相撲の節会(せちえ)

奈良時代から平安時代にかけて行われた宮中行事のひとつに「相撲の節会」があります。射礼(じゃらい)や騎射(後に競馬)と並んで「三度節」とも呼ばれた行事で、当初は七月七日に行われていました。そのため七夕の行事と一緒に盛大に取り組みが行われていました。しかし、淳和(じゅんな)天皇の時に平城天皇の忌日と重なることから、16日に改められ、また次に25日に決められたのです。相撲は古代より農作物の豊穣を祈る神事の一環として行われていました。宮中に取り入れられてより、毎年七月には名だたる相撲取りが集まり、天皇陛下、貴族たちの前で取り組みを行いました。相撲の節会の最古の記録は、聖武天皇の時代の726年になります。

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山開き・海開きの由来やシーズンとは

山開き・海開きとは、その年の登山や海水浴などのレジャーシーズンの始まりに行われる行事です。もともとは山岳信仰からくる山開きが始まりで、それにならって海開きが行事として行われるようになりました。日本は北と南では夏の訪れる時期が違い、地域によって山開き海開きが行われる時期が変わります。この記事では山開き・海開きのシーズンについてや、その由来などをご紹介しているのでぜひ参考になさってください。

山開き・海開きが行われるシーズン

山開き・海開きの時期

山開きはもともとは山伏や高僧などでないと登ることができない山に、定められた期間に一般人が立ち入ることへの安全祈願や神様に許しを得るための行事でした。昨今ではそういった霊験あらたかな(神様のご利益がある)山に入るための儀式という側面もありますが、気軽に登山をレジャーとして楽しむために山登りができる時期になったら安全祈願をして登山を解禁するという意味もあります。今では山岳信仰よりも、安全に登山ができるかどうかが基準で山開きが行われていることが多いでしょう。
一方の海開きも、海水浴などの海のレジャーが安全にできるかどうかが海開きの基準です。海の場合は水質や水温の検査や危険な漂着物などがないかどうかなどが確認されて、海開きとなります。北海道から沖縄にかけて気候に差がある日本では、山開き海開きの時期は地域によっても違いがあります。どちらも安全に楽しめるのは夏に入る時期なので、6月7月が全国で山開き海開きが行われるシーズンと言えるでしょう。

富士山の山開き

日本で一番の山と言えば、誰もが富士山と答えるのではないでしょうか。世界遺産にも登録され登山者も増えたことから、富士山の山開きを今か今かと待ち構えている人は多いでしょう。富士山は登山ルートが複数あるので、そのルートによって山開きの日が違うことも特徴のひとつです。
富士山の山開きはかつては7月1日に行われていましたが、現在では7月1日と7月10日の2パターンになっています。7月1日は山梨県側から登る吉田ルートで、7月10日は静岡県側から登る富士宮からのルートの山開きです。なかでも富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)で行われる山開きの神事は有名です。
浅間大社の山開きはかつては7月1日に行われてきましたが、2014年から7月10日に変わりました。これには7月に入っても登山道にはまだ雪が残っており、安全確保の整備のためという理由もあります。山梨県側のルートの山開きは7月1日のまま変わっていませんが、古くから7月1日に山開きの神事を行ってきたという伝統を重視しているようです。

沖縄の海開き

海開きも山開きと同じく本州では6月7月がシーズンですが、沖縄はもっと早い3月から4月が海開きのシーズンです。海開きは安全祈願も行いますが、夏のレジャーの始まりを告げるイベントでもあります。そのため人気の海水浴スポットなどでは、音楽ライブや花火大会など派手な催しもので海開きを演出します。海開きのイベントを目当てに沖縄にレジャーに行くのも楽しめるでしょう。

山開き・海開きの由来

山開きの由来

日本は山が多く、その国土の約70%が山地です。古くから日本人にとって山は身近な存在ですが、一方で自然の恵みをもたらす存在として畏敬の念を抱き山を信仰の対象として崇めてきました。そのため山を神聖なものと捉え、めったなことでは立ち入ることができない禁忌ともされてきたのでしょう。
聖域である山は一般の人は決して立ち入ることができない聖地として長く崇められてきましたが、江戸時代の中期頃になると、一般の人も聖域に入り山に祀られている神様を拝みたいという考えが広まったようです。これをきっかけとして定められた期間内であれば山に登ることが許されるようになり、一般の人々も山に登ることができるようになったことが始まりです。
山開きは山を登ることへの安全祈願もありますが、時期が来て山に登ることができるようになったことを祝う儀式でもあります。現在では夏山シーズンに入り登山ができるようになる日というイメージが強い山開きですが、日本各地にある霊山と呼ばれる山々では今でも宗教儀式としての山開きが行われています。

海開きの由来

山開きは神道を由来とする宗教儀式から始まったものですが、海開きはそういった宗教や信仰に基づいて生まれたものではありません。しかし山開きが安全を祈願し登山のシーズンの始まりを告げる行事であるように、海開きもそれに倣って始められた行事です。
山や山登りに危険があるように、海にもサメやクラゲによる被害や台風や大潮による被害など危険があります。そういった驚異は海の神の祟りとも考えられ、昔の人々は海を恐れ敬ってきました。そのため神主に安全祈願の奉納を行ってもらうことが海開きの大切な意味でもあり、海にまつわる神事として海開きが行われています。
現在では山も海も特別な慣例がない限り、誰もが自由に楽しむことができます。山開き・海開きの行われる前でも山に登ったり海水浴をすることはできるのですが、やはり安全を考えて行われる行事ですのでそれを守ってレジャーを楽しむのがよいでしょう。

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朝顔市とはどんなイベントか~開催地などを解説

小学生の頃に種から育てた植物といえば、まず朝顔の名が挙がることでしょう。古来日本人に愛されてきた朝顔は、各地で朝顔市が催されるほど、今も変わらぬ人気の夏の花の一つです。そして、日本最大の市である「入谷朝顔まつり」をはじめ、日本では各地で朝顔市がひらかれています。この朝顔市とはそもそもどんなイベントなのでしょうか? この記事では開催地情報を含め朝顔市に関する事柄についてご紹介いたします。

朝顔市とはどんなイベント?

朝顔市とはどんなイベント?

朝顔市とは、その名の通り、あんどん仕立てほか、さまざまな仕立てがされた鉢植えの朝顔が売られている市場のことです。日本の夏のイベントの一つであり各地で開催されていますが、最も規模が大きく有名な「あさがお市」が、東京入谷の鬼子母神で行われる「入谷朝顔まつり」です。この入谷朝顔まつりは毎年7月6日から8日まで開催され、期間中出展する朝顔の栽培業者は約60軒といわれています。
また多くの人出があることから、屋台や露店が多く出店しており、朝顔の市場だけあって朝の5時からスタートしていることも特徴です。出勤前に立ち寄る園芸愛好家のサラリーマンやOLの姿もちらほら見られます。

なぜ朝顔はこれほど日本人に愛されているのか?

夏の朝、民家や公園などあちこちで咲く姿を観ることができる丸いアサガオの花は、日本の夏の風物詩でもあります。日本人が愛してやまない桜と並んで、朝顔は美しくもはかない命の花として愛されてきた歴史があります。文人たちにも朝顔を題材にした名作が数多く残されているほどです。西行法師が「山家集」に残した「はかなくて過ぎにしかたを思ふにも今もさこそは朝顔の露」はまさにその代表ともいえるうたのひとつです。

朝顔という植物について

この日本人がこよなく愛する朝顔は、いつ頃日本に伝わったのでしょうか? 文献や書物を調べてみると、すでに万葉集には、秋の七草の由来となった山上憶良の歌「萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花」に朝顔が登場しますが、この「朝顔」は、現在の朝顔ではなく、むしろキキョウやムクゲを指していると考えられてるのが一般的です。
平安時代に入ると、今度は源氏物語第20帖のタイトル、その名も「朝顔」のなかに「朝顔の君」が登場することでも知られ、また、同時期の名作「枕草子」にも朝顔についての記載が見られ、厳島神社に収蔵されている「平家納経」にも現在の朝顔によく似ている花が描かれていることから、おそらく平安時代に伝わったものではと推測されています。もともとは観賞用の花ではなく薬草として珍重されており、朝顔の種が「牽牛子(けにごし、けんごし)」とよばれ、下剤として珍重されていたことでも知られています。
その後、江戸時代に品種改良が進み、現在のようなさまざまな色の朝顔が作られるようになり、最盛期には「獅子咲牡丹」「桔梗咲」のような花形の朝顔や、細長い柳葉や笹葉の朝顔も作られるようになり、当時の朝顔マニアの間でもてはやされました。朝顔は種苗会社他様々な生産者によってつくられていますが、「入谷朝顔まつり」近くの江戸川区は日本最大規模の朝顔の産地となっています。

朝顔市はどこで行われる?

朝顔市はどのようにはじまった?

江戸時代の園芸熱はそれはとても盛んなものでした。中でも菊と朝顔の二つの花は、花好きの好事家たちの間で特に好まれた花だったのです。日本の商業の中心地として多くの人々が集まった江戸、京都、大阪などでは、「花合わせ」と呼ばれ朝顔の品評会が盛んにおこなわれました。なかでも、初めて「あさがお市」をはじめたのが、現在「入谷朝顔まつり」で名の知られた「東京入谷鬼子母神」、正式には真源寺(しんげんじ)だといわれています。

「入谷朝顔まつり」のはじまり

江戸時代には、朝顔の栽培ブームが何度か巻き起こりました。同時に多くの朝顔栽培職人が生まれ、中でも入谷の植木職人「成田屋留次郎」は多くの朝顔の名品種を作り出したことで名を知られています。明治のころから徐々に現在の「あさがお市」のベースとなる市が立つようになり、戦後間もない昭和23年頃に、地区活性化の一環として入谷鬼子母神境内を中心とした「あさがお市」が企画されたことが現在の「入谷朝顔まつり」のはじまりです。現在では、一日の売り上げは10万鉢以上ともいわれており、東京下町の夏の風物詩として多くの観光客を集め、また朝顔販売業者にとっては、最大の書き入れ時となっています。

各地の朝顔市いろいろ

現在も関東では多くの「あさがお市」が開かれており、とくに都内では、毎年七月の週末に青梅駅前で開催される「青梅朝顔市」がよく知られています。また、埼玉県草加市の草加松原遊歩道で行われる「草加朝顔市」、埼玉県の東武野田線岩槻駅前で行われる「人形のまち岩槻朝顔市」にも多くの人が集まります。しかし、朝顔市は江戸の夏の風物詩でしたが、東京以外の地方ではそれほど大規模の朝顔市はあまり開催されていません。それでも関西エリアでも朝顔市に類似したイベントは時折開催されており、2015年には、大阪市淀川区の新大阪センイシティー前で4年ぶり「新大阪あさがお市」が開かれました。

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三伏とは……三伏の候について

「三伏」は「さんぷく」と読み、中国から伝わった陰陽五行説に関わりのある言葉です。日常的に使われる言葉ではないので、その意味や言葉そのものを知らない人も多いのではないでしょうか。三伏はある特定の日を表す言葉で、時候の挨拶の言葉や俳句の季語としても使われています。この記事では三伏の言葉の意味や使い方についてなどご紹介していますので、ぜひ参考になさってください。

三伏とは

陰陽五行説とは

三伏について知るには、まず陰陽五行説を知らなければなりません。陰陽というのは、物事や自然界のあらゆるものを陰と陽に分けて考える思想のことを言います。古代中国で発展した思想で、例えば太陽は陽で月は陰、奇数は陽で偶数は陰といったように、自然界にある万物すべてを陰か陽かに分類するものです。
また五行というのは、自然界は5つの木火土金水(もくかどごんすい)という要素に分けられ成り立っているという思想のことです。自然界が構成されているのは、この木火土金水が循環して巡り、万物を生成しているからだと考えられています。ここに陰陽をあてはめたのが陰陽五行説です。

五行の作用の仕方

陰陽五行説での5つの要素はそれぞれが影響を与え合っており、良い作用を生む組み合わせと悪い作用を生む組み合わせと相乗効果を上げる組み合わせとがあります。良い作用を生む組み合わせとは、木が火を生み火が土を生み土が金を生み金が水を生むというようにそれぞれが次の要素を生む循環になっていることです。これを「相生(そうじょう)」といい相性がいいことを表します。
一方、対角にある要素に対してはそれを阻む循環になるため、「相剋(そうこく)」といい相性が悪いことを表します。木は金に弱く火は水に弱く土は木に弱く金は火に弱く水は土に弱いといった流れです。これが悪い作用を生む組み合わせです。
もうひとつの「比和(ひわ)」は相乗効果を生む組み合わせで、同じ要素同士つまり木は木、火は火、土は土、金は金、水は水との組み合わせは相乗効果で高め合える組み合わせとなります。ただしそれが良い方向に作用すればますます良くなりますし、悪い方向に作用すればますます悪くなるということです。

五行と三伏との関係とは

三伏は夏至の後の庚の日のことで夏のもっとも暑い時期のことを表しているのですが、なぜこれが陰陽五行説と結びつくのでしょうか。三伏には夏が関係しますが、季節も五行に分けて考えることができるところから始まります。木が春で火が夏、土は土用を指し金が秋で水が冬に当てはまります。
庚は甲乙丙丁戊己庚辛壬癸からなる十干のひとつで、古代中国から伝わり暦や方角などを表す言葉として使われてきました。これを五行に当てはめると庚は金の陽になり、金の陰である辛よりも金の要素が強く出ます。一方、夏は五行では火となり、庚の金は秋になります。火は金を溶かすため金は火に弱い相剋の関係となり、秋の要素を持つ庚の日でも夏の場合は夏の暑さに負けてしまうため夏至以降の庚の日は暑さが厳しい日とされるのです。

三伏の候とは

三伏の意味とは

夏至の後の庚の日は何度が巡ってきますが、その中でも3回目の庚の日を「初伏(しょふく)」、4回目の庚の日を「中伏(ちゅうふく)」、立秋の後の最初の庚の日を「末伏(まっぷく)」と言い、これら3つの総称が三伏(さんぷく)です。
この日は新しいことを始めたり旅に出たりすることは慎んだほうがいい日とも言われます。伏せるという字が使われる理由は、季節は夏の火で火は庚の金であることから夏の気が盛んで秋の気を伏せてしまうという意味からきています。五行による季節の夏と、秋の日を表す庚が火と金で相剋にあり、相性が悪い日であることから凶日と考えられているからです。

時候の挨拶に使われる意味とは

時候の挨拶とは手紙の書き始めに添える季節ごとの言葉のことで、その中に「三伏の候」という言葉があります。三伏は暑い夏の日のことなので、暑中見舞いに使われることが多い言葉です。庚の決まった日を指しますが、ここでは三伏を指す夏を意味するので季節を表す時候の言葉として使われるのでしょう。
同じく夏の暑い時期に使われる時候の挨拶の言葉としては、「大暑の候」というのがあります。これは7月23日頃から立秋までの間に使うことができる言葉です。大暑は立秋までで、三伏は立秋の後の庚の日も意味しています。二つの言葉は若干時期がずれると言えますが、夏の暑い日を表現するのにはどちらも当てはまる表現で一般的には大暑の候が使われることがほとんどです。

三伏の時期には

五行は、内臓など体の部位にも当てはめて考えられます。庚にあたる金は、肺や大腸を指し示します。火の勢いに負けて金の力が弱まると、肺や大腸にも影響を与えてしまうと言えるでしょう。
暑さが強すぎると、冷たい飲み物や食べ物をたくさん取ってしまいがちです。また暑いからと冷房で体を冷やし過ぎてしまうこともあるでしょう。度が過ぎると体がまいってしまいます。この時期には暑くても暖かい食べ物や飲み物をとり入れて体を労わるのも大切でしょう。

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ほおずき市の由来、内容について

東京浅草や金沢で開かれるほおずき市は、日本情緒が感じられるとして観光客にも人気の高い、日本の夏の風物詩です。最も有名なほおずき市として知られる東京浅草の浅草寺のほおずき市は、「四万六千日」の縁日にちなんで開かれるほおずき市。この日に浅草寺で参拝すると、なんと4万6000日分のご利益があると言われています。この記事では、ほおずき市の由来や内容についてご紹介いたします。

ほおずき市の内容

ほおずき市ってどんな市?

ほおずき市はその名の通り、様々な趣向の鉢に植えられたほおずきの鉢植えが並ぶ市場です。浅草寺のほおずき市が最も有名で、ほおずきの鮮やかな赤と風鈴の音色によって江戸の夏の風物詩として知られています。観光客も多く訪れる人気観光イベントとなっており、期間中は50万人以上もの人でにぎわいます。
また、浅草寺以外にも多数のほおずき市が立つ寺社はありますが、東京都内以外の地方ではほとんど見られない風習です。浅草寺以外で見られる、ほおずき市の主だったものは次の通りです。八王子の信松院でひらかれるほおずき市、深大寺でひらかれる延命観音の縁日のほおずき市、六本木の朝日神社で開かれるほおずき市、朝顔市と一緒に開かれる小石川の源覚寺ほおずき市、神楽坂の神楽坂まつりの期間にひらかれる毘沙門天善國寺のほおずき市があります。

ほおずき市のはじまりとは?

ほおずき市が盛んになった理由には、薬草としてほおずきを売っていたのが始まりです。浅草寺のほおずき市も、もとはといえば、近くの愛宕神社の千日詣りの縁日で売られていたほおずきの薬効が評判になり、ほおずきが飛ぶように売れるようになったことの波及効果でした。そこから参拝客がより多く集まる浅草寺にもほおずき市が立つようになったといわれています。また、ほおずき市が盛んになった背景には、ほおずきが大変人気のある植物だったことも大きく影響しています。江戸時代には、ほおずきは手遊びや観賞用として大変人気があり、江戸の町民のあまりの熱狂ぶりから、一時は街のほおずき売りの増加を規制するほどでした。また、ほおずきは「鬼灯」とも書かれ、雷除けや魔よけのお守りとしても重宝されていたのです。七夕やお盆の季節には庭先や仏壇に飾られました。またお供えにはほおずきをあしらったり、ほおずきちょうちんを使用することも、江戸の庶民の生活の中でよく行われていた風習だったのです。

江戸時代には万能薬とされていたほおずき

当時よくいわれていたほおずきの薬効とは、ほおずきをそのまま丸のみにする、あるいは煎じて丸のみにすることで、子供のかんの虫が治まって大人しくなり、大人の腹痛を鎮めることによく効くというものでした。もともと平安の昔より、ほおずきの実を陰干しにして鎮静剤とされてきた歴史があります。その後時代が進むにつれてますますほおずきは効果の高い薬草として重宝されるようになり、煎じて飲むことによって、安産の妙薬、利尿剤、小児の解熱、頭痛、腹痛、のどに効く万能薬として多用されるようになりました。

ほおずき市の由来

ほおずき市と関係の深い四万六千日とは?

観音様の縁日は、毎月18日と決まっていましたが、さらに功徳日として参詣すると何倍もの功徳が積める特別な日が設定されました。その最たるものが四万六千日です。四万六千日とは、7月10日あるいは旧暦の7月10日頃に当たる8月10日を指します。その日は最大の功徳日として四万六千日参詣したのと等しい功徳があるとされるようになったのです。この四万六千日は、江戸時代中期から始まった風習といわれており、それまでの慣習だった千日参りの功徳に匹敵する、もしくは凌駕する功徳日として各地で盛んにおこなわれるようになりました。また、もともとは、7月10日だけが四万六千日の功徳日でしたが、誰よりも早く一番乗りで功徳にあやかりたいという人が多くいたことから、夜のうちから寺社に集まる参拝客が増える一方でした。そこで寺社側では、前日の9日も含めて四万六千日の功徳日とすることとし、さらに大勢の参詣客が集まるようになったのです。東京の浅草寺以外にも、京都の清水寺、大阪の四天王寺など、各地の観音様を祀る寺社で縁日が開かれるようになりました。

ほおずき市の由来は?

ほおずき市は、観音信仰・観音縁日と深い関わりがあります。先にご紹介した四万六千日文の参詣と匹敵する功徳が積めるとされる7月10日は、当然多くの参拝客でにぎわいます。この縁日の人手を当てにした植木職人たちがはじめたほおずき市は大当たりとなり、次第に本来の参拝の目的のはずだった功徳日よりも、ほおずき市が主役となってしまいました。現在では、四万六千日という観音様の縁日を意識することはなく、ほおずき市に訪れる人がほとんどです。最大のほおずき市といわれる浅草寺のほおずき市では約100軒のほおずき売りが集まり、50万人を超える人出でにぎわうビッグイベントとなっています。

ほおずき市の由来、内容についてShaddyのギフトマナー辞典で公開された投稿です。


「半夏生」とはどのような日か?

「半夏生(はんげしょう)」とは? と言われて、瞬時に答えられる方は少ないでしょう。これは、日本に於ける雑節の一つとして、日本人の生活文化から生まれた独自のものです。では一体、「半夏生」とはどんな日で、何をする日なのでしょうか? ここで詳しく説明していきます。

「半夏生」を知る前に

日本独自のものである「雑節」とは?

日本には、雑節という暦日があります。これは、二十四節気や五節供の様に中国から伝わったものではなく、日本人の生活文化から生まれた独自のものです。「節分」や「彼岸」、さらには「土用」などが代表的な雑節として挙げられます。つまり、季節の節目となる日のことで、二十四節気を補う意味合いを持っているのです。
例えば、2018年の雑節を挙げると、1月17日は冬土用(入り)、2月3日は節分、3月18日は彼岸(入り)、4月17日は春土用、5月2日は八十八夜、6月11日は入梅、7月2日は半夏生、同月20日は夏土用(入り)、9月1日は二百十日、同月20日は彼岸(入り)、10月20日は秋土用(入り)となります。

雑節は日本文化が生んだ知恵?

雑節が考え出された背景には、農家が季節の移り変わりを正確に把握できれば、農作物に甚大な被害を出さずに済むという自然現象と農業の深い繋がりがありました。例えば、「もうすぐ八十八夜だから、霜が降りてくる前に農作物に被害が出ない様、対策しておこう」という考えが生まれる訳です。つまり、雑節は農業に従事する方々が生んだ、生活の知恵といったところなのです。

「半夏生」とはどんな雑節か?

半夏生とは、7月2日頃を指します。夏至から数えて大凡11日目といったところです。梅雨の末期であり、半夏(はんげ)という毒草が生える多湿で不順な時期とされています。農家の方々はこの日(時期)までに畑仕事を終える、もしくは水稲の田植えを済ませ、以降は絶対に田植えをしないという習慣がありました。そして、半夏生までに田植えを済ませた農家の多くは、半夏生の日の天候によって稲作の出来を占った様です。

半夏生の時期に注意すべきこととは?

古来からの言い伝えによると、半夏生の頃は、天から毒気が降る、もしくは地面が陰毒を含んで毒草が生えるなどと言われており、この時期に筍や蕨などの野菜を食べることや、種を蒔くことを忌む風習があったそうです。ちなみに、この時期は井戸に蓋をして毒気を防いでいたそうです。

半夏生の時期に食べるものとは?

土用にウナギを食べる様に、雑節時には何かしら食べるべきものが設定されています。地域にもよりますが、半夏生の時期はタコを食べる習慣があり、現代でもその風習を守る地域もある様です。意味合いとしては、田に植えた苗が、タコの足の様にしっかりと地面に根付く様にという願いが込められていると言われています。

「半夏生」の過ごし方と風習

各地に残る半夏生の風習

雑節の日は、地域ごとに様々な過ごし方があり、半夏生もまた他ではありません。特に農業に従事する方や農業の盛んな地方では、古来から続く風習を守っているところが多い様です。例えば、奈良県の香芝市周辺では半夏生のことを「はげっしょ」と呼び、農家では小麦を混ぜた半夏至餅(はげっしょもち)を作り、きな粉を付けて食べるそうです。これは、田植えを終えた農民が農作業を無事に終えたことを田の神様に感謝し、お供え物をして共に食したことが由来とされている様です。
また、香川県の讃岐の農村ではうどんを食べる習慣があり、1980年に香川県製麺事業共同組合(現:本場さぬきうどん協同組合)が7月2日を「うどんの日」に制定しています。さらに、福井県大野市では、江戸時代に大野藩の藩主がこの時期に農民に焼きサバを振る舞ったという逸話が残されており、現在でも大野市を中心とした地域では、半夏生の時に焼きサバを食べる習慣が残されているそうです。他にも、長野県小川村では、この日に芋汁を食べる習慣があったりなど、何かしら決まったものを食べる風習が残っているところが多い様です。

日本各地で行われる半夏生のイベント

この日は、全国各地で半夏生にちなんだイベントが行われています。代表的なものをいくつかあげると、まず兵庫県南部の明石市では、半夏生の際にタコを食べる習慣があることから、「明石半夏生たこまつり」が開催されています。何と言っても明石市はタコの漁獲量日本一を誇っており、半夏生でタコを食べる習慣を広く発信すると共に、もっと多くの方に明石のタコを味わい、知ってもらいたいという意図が込められている様です。当日は、駅前や学校など、あらゆるところでタコにまつわるイベントが開催され、町中がタコ一色に染まります。また、大阪府の河内長野市では、半夏生が近くなると伝統食として知られた「半夏生もち」を大々的に販売します。風習にちなみ、お餅にはまんべんなくきな粉がまぶしてあり、味わい深く若い方からご年配まで、広く親しまれているそうです。

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